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敬老の日に母との思い出を綴る [母]

昭和40年4月に小学校に入学したばかりのわたしとふたつ下の妹をアパートに留守番させて、母が働きに出るようになった。

父の収入だけでは、将来の学資資金や戸建て住宅資金が足らないとの思いから、近所のおばさんに勧誘されて第一生命に勤めるようになった。

わたしは、小学校の帰りに幼稚園で妹を迎えてつれて帰り、おうちで、おやつをあげたりした記憶がある。

父は酒豪だったが、まっすぐな立派な人だった。
が、私たち兄妹がそれぞれ大学を出れたのも、高校1年のときに家を建てたのも、やはり母が第一生命に勤めたからこそだった。

数年前に第一生命が相互会社から株式会社になったとき、昔、母が、「第一生命が日本で最初に相互会社の生保だったのよ」と自慢していたのを思い出した。

契約者同士の互助会的な意味合いを持つ相互会社の良さよりも経営効率を重視する株式会社になり、しかも上場したことで、数十年ものあいだ契約者数で後塵を拝してきた日本生命を追い抜いたというNEWSを聞いた母は、すでに退職したとはいえ、とてもうれしそうだった。



数年前から認知症気味の母だが、あるとき思い出したように、あの第一生命に入社したばかりのころの話をしだした。

福岡での研修が終了予定よりも遅くなり、西鉄特急で急いで帰ってきたら、アパートの前でわたしたち兄妹が大きな声で「おかあさーん おかあさーん」と泣いていたそうだ。
たぶん、子供たちは泣いてるだろうなー、と思いながら急いで帰ってきたら案の定だった。

「あのときはごめんなさいね」と母は言う。

まったく覚えていなかったが、小さいこどものことだから、なによりも母親が大好きで、ほかの何にも換えがたいものだったはずだ。

認知症の母が、突然そのような話をするものだから、小さな自分たちがアパートの前で大声で泣いている場面を想像し、涙が出た。

あれからもう3年が過ぎ、母は、わたしのこともたまにしかわかってくれない。





博多の森日記

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